子どもが勉強しません(1)

子どもが中学生以上になると、
「子どもが勉強しない」
という悩みが
新たに出てくることが
多いですね。

おかんも、
長男が中学に入学してからは、
たくさん悩み、
試行錯誤して、
接し方を考えてきました。

時には怒ったり、
口うるさく言ったり、
おかんが率先して
リードする形で
計画を立ててみたり・・・

ことごとく
失敗しましたけどね(苦笑)。

何をどうしても、
「子どもを勉強させること」は、
できませんでした。

いくら親子であったとしても、
他人である我が子の行動を、
親が無理に変えることは
できなかったのです。

しかも、
反抗期真っ只中ですからね。

おかんが必死に
なればなるほど、
子どもは逃げていくのです。

叱れば叱るほど、
やる気はなくなっていくのです。

そもそも、
親がなんとかしようと
介入することに、
反発を覚えてあたりまえの時期に、
子どもの領域に
土足で踏み込んでいたのだから、
うまくいかなくて、
当たり前。

しかも、
やる気がないとか、
勉強していないとか、
本人を否定することしか
考えていなかったのだから、
やる気の素となる、
自己肯定感だって
育めてはいなかったのです。

そしておかんはといえば、
頭の中は、
どうして我が子に
「勉強させようか」
ということで
頭がいっぱいで、
自分の事も、
本来の我が子のことも、
見る余裕がなかったのだと
今は思います。

今思えば、
なんであんなに
勉強にこだわっていたのか。
ですけど、
それにはおかんなりの
理由があったのです。

勉強って、
できたらいいことも
多いかもしれないけれど、
勉強ができたからって
幸せが保証されているわけでは
全くない。

現実は全く逆で、

勉強ができたら
それでいい。

そのやり方で
人生を失敗していく人は
数え切れないほどいるのです。

そんなことにも気づかず、
我が子に
必死になって
勉強させようと思っていたおかんは、
結局のところ、
我が子の本当の姿ではなく、
世間一般から見た「いい子」を
我が子に求めていたのだろうと
思います。

自分も子どもも、
定義がはっきりしない
「普通」でいられるように、
必死で頑張っていた。

それが当たり前のことだと
思っていた。

でも、
それが本当に
自分の望む幸せかどうか
そうなれば幸せなのかどうかなんて、
考えたことも
ありませんでした。

そこから抜け出るためには、
まず自分自身の
自己肯定を立て直すことが
必要でした。

「みんなと同じ」
というカテゴリーの中にいることが、
自己肯定であり、
そこにいれば安心。

何も疑わず、
そのカテゴリーの中にいることを目指し、
努力して生きてきたけれど、
実はそれが自己肯定ではなく、
それが幸せでもなかった。

しかも、
どれだけ頑張って、
「みんなと同じ」
をめざしても、
決して「同じ」にはなれなかったし、
そうなれない自分を
いつも責めていた。

「みんなと同じ」に、
あるいはそこより上に。

そう思った学生時代のおかんが
その手段にしたのが
「勉強」でした。

人並みになるために。
自分を肯定するために。

その手段として、
一番手っ取り早く、
他人からわかりやすい基準を
選んだということです。

自己肯定するために、
他人から肯定されようと
したわけですね。

そしてその思考は
おかんの中に生き続けていたために、
子育ても、
その考えに沿うものとなり、
我が子にも
勉強することを
求めたのだと思います。

しかも、
我が子は発達障害で、
小学生時代は、
問題児だった。

学習障害はなく、
学力に問題はなかっただけに、
発達障害でも
「普通に」生きていける道として、
勉強ができることを
目指してしまったのは、
やはり自分が
「普通」のカテゴリーに入るために、
勉強した経験が
ベースにあるのだと
思います。

自分は自分で望んで
そうなったのだから、
そもそもが間違っていたとしても、
それはそれでしょうがないのでしょうけど、
我が子にも
その考えを押し付けてしまったのが、
そもそもの間違いでした。

けれど、
そうやって間違ったおかげで
たくさんのことを学び、
いろんなことに
気づけたのだから、
人生ってわからないものだな。
って思います。


長くなりそうなので、
続きはまた明日、
書きますね~。

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