なんのために働くの?~気持ちが途切れた~

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最初のお話はこちら
『なんのために働くの?』

『なんのために私は働くの?~消耗していく「余裕」~』

書いてて思い出したことが
ありました。

職場で毎年行われる、
意向調査の際に、
長男の発達障害の事も、
ワンオペ家事育児の状況も
全部伝えたにもかかわらず、
休んでも影響の出にくい
人数の多い部署から、
少人数の出先事務所に
移動になったことも
「仕事ってなに?」を
考える原因になっていました。

だって、
そういうことも含めて、
乗り越えられるように
制度とかでサポートされているのが
公務員だと思っていたから。

そう思ったから、
4年制の大学に進学するのを
認めてもらうのと引き換えに、
公務員になることを
受け入れたのに。

今思えば、
自分の甘さ
だったのでしょうね。

結局
公務員だったとしても、
近くに親がいて、
子育てを手伝ってくれる夫がいて、
問題のない「普通の」子どもでないと、
一生同じ仕事で
働き続けることは無理なんじゃないの?

冷静にまわりを
見渡した時、
子育てをしながら
働き続けている人の中に、
私がモデルに出来る人がいない。

そう
気づいたとき、
さらにこの状況で、
キャリアを重ねていく力が
出てこなくなりました。

私自身がモデルになるには、
越える壁が大きすぎて、
もう私にはとうてい無理。

なんだかもう、
働き続けるという事に、
何の意味も
見いだせなくなりました。

大変だったけれど、
それまで自分なりに
やりがいも感じ、
楽しくやってきた
仕事に対する気持ちが
ぷつんと切れてしまったのでした。

子どもを産んでも
働き続ける
ロールモデルを体現しているあたし。
だと思って
がむしゃらにやってきたけど、
今この状況で、
子どものことを犠牲にしてまで、
そうなりたいわけ?

私の出勤後に、
お腹が痛くて
トイレから泣きながら
電話をしてきた息子のところに、
また片道1時間かけて

戻ることもできず、
何をしてあげることもできずに
仕事をすることが、
本当に
私のやりたかったことなのか?
仕事人としても、
お母さんとしても。

自分の中で
あふれるほどの
たくさんの葛藤を抱えて
もんもんとしていました。

しかもその時期、
コーチングを学び始め、
「これを子どもに使ったら」
と気づき、
実際にやってみて、
手ごたえも十分感じていました。

発達障害の長男との関係性が、
少しは変わりつつあると感じ、
真っ暗な子育てのトンネルの
遠くに小さな光が
見えてきたときでした。

これなら、
中学にも
少しは安心して
通わせることが
できるのかもしれない。

そんな期待も、
持てるようになりました。

子どもともっと
一緒に過ごして、
もっと関わりを持ちたい。

同時に、
自分と同じように
悩んでいるたくさんのお母さんたちにも、
コーチングを使って
何かお手伝いがしたい。
たくさんのお母さんを、
今よりもっと
笑顔にできるお手伝いがしたい。
とも思ったのです。

「仕事」に対して、
自分の向いている方向が
変わった
と気づいた時でした。

とはいえ私は、
まだまだ完全には
切り替えられていなかった。
ということが、
後々わかってきます。

それは、
「働かざるもの、食うべからず」
という
「勤勉」が代名詞になるような
日本人にありがちな、
あの、無言の圧力。

それは、
完全に
おかんの無意識の中に
ずっと昔々から
あったものだと思います。

もはや日本人の
DNAかっ!
ってくらい、
染みついた無意識。

これがあったから、
おかんは、
組織で働くことは
やめたけれど、
なにかしら「仕事」をする自分を
選んだのだと思います。

というか、
そうやって、
職場で働くことをやめた自分を
正当化し、
子どものせいでやめた。
と思いたくなかったのが
本当のところかもしれません。

人の目に対しても、
自分に対しても、
辞めたという事実を正当化し、
罪悪感を感じずに、
子どもといる時間を
増やしたかった。

もちろん、
「お母さんを笑顔にするための
サポートをする」
そう願った気持ちは、
本当にありました。

あったからこそ、
今こうやって
ハンサムおかんとして
いるのですが。

組織で働くことをやめると、
平日の日中は
自由になります。

幸いに、
息子たちは学校に行ってくれていたので、
おかんとして必要とされるのは、
基本、放課後から夜。

日中の、
息子たちがいない、
その時間を利用して、
おかんは次の「仕事」の準備を
始めたのでした。

続きはまた
明日書きますね~。

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